Japanese Soul Food ”SUSHI”
皆様、こんにちは!
本日のブログはDBの葉山が担当いたします。
先日私の父が誕生日でございまして、お寿司屋さんにお祝いに行った時のお話をさせていただきます。
江戸前寿司をいただいていたのですが、不意に江戸前寿司と関西寿司の違いってなんだろうかと疑問に思い、
大将にお話を伺っていきました。
日本人のソウルフード”お寿司”を歴史から成り立ちまでを今回は紹介させていただきます。
では、まずお寿司の歴史から入ってみましょう。
お寿司の起源
お寿司の起源は、東南アジアの「なれずし(熟鮓)」だったとされています。
「なれずし」は発酵食品で、米粒がどろどろになるまでしっかり発酵させるのが特徴。
当時、山岳地帯に住んでいた民族が、手に入りにくかった魚を長期保存するための方法として編み出したものです。
川魚を保存するため、米などの穀類を炊いたものと魚を一緒に漬け込み、お米の発酵によって魚を保存していました。
(なれずし)
では、日本のお寿司はどのようにして今のような形になったのでしょうか?
前述の「なれずし」は、奈良時代ごろに日本に伝わったとされています。
甘酢で味つけしたごはんにアユやフナなどの川魚をのせて一晩寝かせたもので、保存食として食べられていました。
これらは貢物として朝廷に献上され、貴族の食べ物だったこともわかっています。
この時代のなれずしの名残は、滋賀県の「鮒寿司(ふなずし)」に残っています。
鎌倉時代になると、残り物の魚を使ったなれずしも登場。
この頃は、ごはんは食べるためのものではなく、発酵させるためのものだったそうです。
(鮒寿司)
発酵期間を短くし、ごはんも食べるようになったのは室町時代のことです。
発酵が浅いうちにやめてしまうので、「なれずし」のように魚も発酵しきらず生の状態に近いため、
「なまなれ」と呼ばれるようになりました。
「なまなれ」の出現で、お寿司には食べどきができ、食べる日から逆算して、
お寿司を作ることもできるようになりました。
単なる魚の保存食から、ごはん料理へと進化を遂げたのです。
すし桶に塩をふった魚とご飯を交互に漬け、重石をして味をなじませる方法で作られるようにもなり、
これが今の押し寿司や箱寿司の原型ともされています。
(なまなれ)
今のように握り寿司として食べられるようになったのは、江戸時代末期になってからとされています。
江戸で流行していた屋台で、握ったらすぐに食べられる「握り寿司」が生まれました。
これは江戸前(東京湾)でとれる魚介類や海苔を使っていたことから、「江戸前寿司」と呼ばれるようになったのです。
この頃の握り寿司はおにぎりくらいの大きさだったので、切り分けて食べられていました。
1皿に2貫のお寿司を盛るスタイルは、切り分けて食べていた当時の名残でもあります。
後述しますが、大正時代にネタの種類が増え、お寿司のサイズも小さくなっていくまでは、
現代で我々が想像するお寿司のサイズよりもやや大きい「一口半から二口」が1貫あたりのサイズだったようです。
現代のお寿司スタイルが誕生
製氷産業が盛んになった明治30年以降、漁法や流通の発展と相まって、
これまで生の刺し身が扱えなかった寿司屋も、ネタを氷で冷やして保存できるようになりました。
煮切り醤油をネタに塗って出す、現代では一般的な提供方法は、この時代に確立されたスタイルです
さらに大正時代初期には、寿司屋に電気冷蔵庫が登場。
続々とネタの種類が増え、サイズも小さくなっていきました。
ここまで、お寿司の起源と江戸前寿司の成り立ちまでをお話しさせていただきました。
ここで関西寿司に関しても少し触れさせていただこうと思います。
実は握り寿司の原型である「江戸前寿司」よりも前から広まりました。
箱寿司は、木製の型にエビや魚の切り身と酢飯を重ねて詰め、押して四角い形に整える寿司です。
大阪府では明治時代にサバやアジなどを材料とした押し寿司が普及し、
その派生料理として日常のもてなしを目的にタイやエビ、
アナゴの高級食材を用いた”箱寿司”が考案されました。
みなさんも関西に行かれた際はぜひ食べてみてください!
最後に握りずしが全国に広まった理由をご紹介させていただきます。
意外に思われるかもしれませんが、震災と戦争が理由となります。
1923年の関東大震災までは握りずしの職人と言えば、ほぼ東京(関東)に限定されていました。
しかし、震災で失職した職人たちは職を求めて全国に移り住んだのです。
いわば「東京の郷土料理」であった握りずしが、全国区となるきっかけです。
そして、第二次世界大戦後の制度変更が決定的に握りずしを優位にしました。
実は1947年に制定された「飲食営業緊急措置令」によって、日本人による飲食店の営業は禁止されてしまいました。
鮨のみならず全ての料理人にとって厳しい時代が到来したわけですが、
鮨に関しては「委託加工販売」によって法令の網の目を抜ける事が可能でした。
これは、配給されたお米と調理代金をお店に持ち込む事で、握りずしと交換してもらえると言うシステム。
お米1合と調理代40円を持ち込めば、握り10貫と交換してもらえました。
「闇鮨(やみずし)」とも呼ばれたとか。
この制度は「すし」の中でも「握りずし」のみに限定されました。
それゆえに、関西寿司のお店でも、生活のために江戸前鮨に切り替えるお店が増えるきっかけになったようです。
その後、鮨=握りと言うイメージが強まり、握りずしの普及スピードがどんどん上がったのだと思います。
さらに、回転寿司が生まれて大衆化して現在に至るわけですね。
多様性こそが寿司・鮨・鮓文化の魅力です。
私達、開発事業部の仕事も実はとても多様性に滿ちあふております。
地主さんの生い立ちや、土地の歴史、地形、すべて唯一無二のものであり、同じものは存在しません。
その分仕事の難易度も高く、やりがいもあります。
だからこそ柔軟にかつ地道にコツコツ寿司職人のように精進していかないとなりません。
みなさんに少しでも新しいオリジナルと多様性を提供できるようこれからも頑張っていこうと思います。
最後になりましたが、
私の事業部の大将の一番好きな食べ物は寿司とのことで、
おそらく9GATES.で一番お寿司について詳しいと思います。
美味しいお寿司やさんや、お寿司の事についてもっと知りたい方はぜひ開発事業部の大将までにご連絡ください!