3月
13
DIARY

築地の昔を知る

Good morning!!

 

おはようございます!

本日のBlog担当はPrsident Office moriyamaです。

 

本日から、マスクの着用については個人の判断へと変わりました。

花粉の猛威からか、街中ではそこまで大きな変化は無いようなイメージです。

 

さて本日は、

中央区に新しくできた図書館兼郷土資料館で見つけた

東京の古地図を見たのをきっかけで、

我々の生活にとっても身近かつお世話になっている

築地 の歴史について調べてみました。

 

築地は最初から卸売市場の街として栄えたわけではありませんでした。

1657年に起きた「明暦の大火」により、隅田川周辺は大きな被害を受けます。

その復興計画の中で隅田川河口一帯が埋め立てられ、武家地として整備されました。

この武家地こそが、築地のルーツとなります。

 

修復工事は、大火によって焼失した本願寺の門徒らが中心となり進められました。

以前は浅草にあった本願寺も築地に再建されます。

このように、築地は文字通り海を埋め立て「築かれた地」なのです。

 

江戸時代に入ると、築地の武家地はより発展し、

多くの武士や大名が生活するようになります。

そのため、当時の商人は米や炭、薪といった生活用品を彼らに売り、

生計を立てていました。

こうして築地の経済は回り出し、人口も増え、成長を遂げていきます。

 

江戸時代後半、築地に外国人居留地の設立が提案されます。

これは長らく続いた鎖国状態から、幕末にかけて開国に向かったのが大きな要因です。

明治維新後は、実際に築地に居留地が建ち、本格的に外国人を迎える準備が進められます。

居留地以外にも、外国人に向けた講武所や軍艦操練所が建設されました。

その結果、ミッション・スクール(キリスト教主義の学校)やホテル、

パンといった外国の文化が築地に広まっていきます。

 

1923年の関東大震災により、築地は街の大部分が焼失し、甚大な被害を受けます。

その後の復興計画に伴い、町名や地番の変更が行われましたが、

それがかえって混乱を招き、外国文化を取り入れ発展した街は徐々に衰退してしまいます。

築地の象徴でもあった本願寺も震災により壊滅し、

街の雰囲気は大きく変わっていきました。

そんな中、魚河岸が築地に再建されることが決定。

これを機に、築地は当時の活気を取り戻し始めるのです。

 

震災の復興から生まれた“日本の台所”

 

その後、「墓地の跡地で商売をすると繁盛する」という噂が流れ、

本願寺の跡地に店を構える人が現れます。

その結果、全国から食品や調理器具を扱うお店が築地に集まり、

500以上の店が軒を連ねる日本有数の問屋街「築地市場」が完成したのです。

第二次世界大戦中、政府の統制に伴い築地市場の活動は制限されますが、

戦後間もなく営業が開始され、あっという間にその賑わいを取り戻します。

市民に愛され、「都民の台所」として発展し続けた築地市場は、

今では水産業者や地域の人々だけでなく、

外国人観光客も多く訪れる観光地となりました。

2018年には、中央卸売市場、いわゆる場内市場が豊洲市場に移転。

一般向けの場外市場のみになりましたが、

多くのお店が営業しており、変わらぬ賑わいを見せています。

 

 

場外には、昔からある老舗のお店ももちろん魅力的ですが、

新たにオープンしている、

立ち食い寿司屋

コーヒー屋

カレー屋

ワインバー

貝焼き屋

などなど

 

私的おすすめが多々あるエリアでございます!

 

その土地の歴史・成り立ちを知ったうえで、

頂く食事・その土地で商いをしている人との会話は

より意味の深いものになるなと 感じました。

 

築地のみならず、

次回は大好きなエリアである

浅草・門前仲町・蔵前 などについて調べてみようと思います。

 

moriyama

2023-03-13DIARY